数学(高校)

高校入学当初、私は数学に苦手意識を持っていた。
最初に受けた実力テストで赤点ギリギリだったからだ。
その印象を引きずって、一学期の中間も期末も平均点を取るのがやっとだった。

そんな折、初めて受けた全国模試の結果が返ってきて驚愕した。
偏差値65で校内2位だったのだ。

奇妙だ。
と、そのときは思ったが、何のことはない。
私の計算が遅いことがその原因だった。

説明しよう。
実力テストや定期テストは難易度の低い問題をひたすら解くという形式で、中には応用問題もあったのかもしれないが、それはごく一部に過ぎなかった。要するに内容は計算ドリルと変わらない。私の問題を解くスピードが遅いので最後まで辿り着けなかったのだ。
他方、模試は最初に計算問題が少しあって、残りはテーマごとの問題が2、3問という形式で比較的にゆったりと取り組むことができた。わからない問題を飛ばしながら一通り終えて、残った時間で飛ばした問題に挑戦することができた。
問題数の差が点数の差となって表れていたのである。

ちなみに後になってわかったことだが、定期テストの問題が多いのはセンター試験を意識していたためらしい。

さて、なぜ私の計算は遅いのか?
答えは明らかで公式を覚えていなかったからだ。そしてそれは演習量が足りないからだ。
けれども反復練習をするのは無駄だと考えていたので、自主的に演習量を増やすことはしなかった。
当然の帰結として、3年間で何度か追試を受けたことがある。
対照的に、模試の成績は安定していた。授業内容を理解できていないというわけではないらしかった。だから勉強しなかったとも言える。

私は数学はパズルと同じだと考えていた。
多くの問題はクロスワード・パズルのようなものだ。突き詰めれば公式を知っているかどうかという問題だし、そうやって導き出した答えを組み合わせて次の答えを得るという形式がほとんどだ。
中には公式を知っているだけでは解けない問題もある。ちょっと高度な証明問題や確率の問題などがそうだ。こういうものは完成形のわからないジグソーパズルと同じだ。
試行錯誤しながら地道に進めるというのは常識的ではあるが、限られた時間の中で取るべき方策ではない。
天才ならば、バラバラのピースから全体像が読み取れるのかもしれないが、そんな人は極めて少数だ。
では凡人はどうすべきなのかというと、過去に同様の問題を経験しておくのが良いだろう。幸いにも、このチートめいた手段は認められているし、むしろ推奨されている。
もうひとつ、勘に頼るというのもある程度有効である。ヒトの脳とは大したもので、与えられた情報をできる限り単純に整理しようとする。目の前に一つ一つピースを並べていけば、それらが最もすっきりする形が自然と見てくるはずだ。

ところで、こんな経験が何度もある。
センター試験形式の問題(数学Ⅱ)を解いているとき、前述のとおり私は計算が遅いので、最後の大問を解く時間がいつも足りず、そして最後にあるのは大体ベクトルの問題だった。するとどうしたことか、問題用紙の空欄に答えが浮かび上がってくるのである。より言葉を尽くせば、先に答えが見えて、計算がそれを後追いするという感じだ。通常の計算の数倍の速度で解くことになる。そしてこんな非常識な方法で埋めた解答はいつも正解だった。
言っておくが私はエスパーではない。
自分なりに一応の解釈はある。意識と無意識の問題だ。無意識の方が先で、意識が遅れてついてくるということはこの本に詳しい。
マインド・タイム 脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット
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不勉強のすすめ

私は大学生になるまで試験が好きだった。
試験期間中は宿題が出ないか出たとしても量が減るし、試験日当日は午後から自由だからだ。
そして自由になった時間を私は余暇として満喫していた。
それでも成績は学年で上位をキープしていた。

おそらく、試験が憂鬱だという人は、試験勉強をしなければならないと思っていて、結果よりもこちらの方がプレッシャーなのではないか。

試験勉強をしないで、そこそこの得点を取れれば誰でも試験が好きになるはずだ。
一旦好きになってしまえばそこから好循環が始まる。

参考までに私の高校時代の体験を語ろう。

私は定員割れするような公立の進学校もどきに入学した。
入学してすぐ受けた学力試験では20番台だった。ちなみに学年は270人くらい。
まあ、こんなものだろうな、と結果には満足していた。

しかし、日々の生活がどうにもきつい。
私は“真面目”だから、宿題はやらなければならないと思っていたし、予習も実質的に義務だった。

ここで、私は特に優秀ではないということを述べておく必要があるだろう。
出された課題を全部こなそうとすると、帰宅部の活動を終えてから、休みなく作業しても夜10時までかかるのだ。
実際には夕食や休憩を挟まなければやってられないので終了時刻はどんどん繰り下がっていく。
11時には布団に入る習慣だった私には到底耐え難いものだった。
周りの友人たちは部活や塾で私よりも忙しかったはずなので、私は少なくとも彼らより能力的には劣っていたということになる。

睡眠時間を削られた私は遅刻が増え、授業中に睡魔に襲われだし、成績は順調に下がっていく。

一学期の期末試験を終えて、私は諦めた。
こんな馬鹿げたことに付き合っていてはうつ病になってしまう。

それから私がやったことはたったひとつ。
学校以外では勉強しない。
それまで帰宅してからやっていた宿題と予習を授業中にやる。できなかったら放課後やってから帰る。
いわゆる内職だが、ほとんどはそのとき受けている授業の予習なので見つかっても注意されるだけ。むしろクラスの平均点に貢献する優等生だ。

はたして二学期には成績が急上昇。
全国模試では校内トップというなんとも微妙な結果を出すまでになった。
授業を真面目に聞くことの無意味さが証明された。

考えてみれば単純なことだが、平日に1日7時間近く、しかもある意味では主体的に勉強していたのだから当然と言えば当然かもしれない。
まるで猛勉強していたみたいだけれども、実態は放課後、休日どちらも遊び放題で、負担はほぼない。

困ったのは、月に一回、その週にどれだけ勉強したか(もちろん授業以外)学校に報告するシステムがあったことだ。
学校にとって生徒の管理や統計的な資料集めなどの利点があるのはわかるが、生徒、特に私にとっては迷惑以外の何物でもなかった。
真実をそのまま書いたら、0時間で何もやっていないことになる。
あまり大胆な嘘をつくのも気が引けて、毎日1、2時間勉強していることにしたら、週10時間くらいで、それを提出すると個人面談の際に、もっと勉強しろと言われるのだ。
教師の求める数字は、週30時間以上(大体この数字はおかしい。労働基準法ですら週40時間だ)。
「おまえはこれだけの時間でこれだけ出来るのだから、せめてあと10時間勉強したら、もっと成績が上がるぞ」
などとおだてつつ真剣な顔で迫ってくる。
「私はそれをやって成績が下がったからやらないことにしたのだ」、という主張は通らない。
どうもやればやるほど成績が上がるという宗教の信者らしい。
宗教一般について言えることだが、布教活動ほど迷惑なものはない。
しかもこの場合は半ば強制力を伴っているのである。
腹が立ったので次から読書の時間を国語の学習時間として計上してやった。
どうでもいいけれど、こうして統計情報は信頼性を欠いていくのである。

私は試験は好きだが、勉強は嫌いである。

嫌いな勉強を避けるには、結果を出すのが一番だ。
勉強しろと言われたら、満点の答案を見せてやればいい。
けれどもその結果を出すにはどうしても勉強が必要だ。

ところで、私は性悪説を支持する。
水は低い方へ、人は悪い方へ流れ、
高い方、善い方へ導くことは容易ではない。

その点、(学校以外では)勉強しない、という方策は絶妙だったと言える。
「勉強したくない」という負の欲求を隠すことなく、「勉強しない」という目標を前面に押し出し、そのために自ら進んで「勉強する」。
その中で副産物として得られる学力の向上。
ここには一切の無理が生じていない。

しかし、当然のことながら永久機関は存在しない。
私が犠牲にしたものは、眠りながら受けていた授業時間であった。
結局のところ、要らないものと引き換えに利益を得るという、ありきたりな経済活動を行ったに過ぎない。

ここまで逆説的にややこしく述べてみたが、要は、
やらなければならないことをやるべきときにやる。
それだけだ。

法学部の志望者に向けて(その2)

実は、私が法学部を志望した理由はもうひとつあった。
「法学部には卒論がない」
というのがそれだ。

大学といえば卒論というイメージがなんとなくあった。

しつこいようだが私は文章が書けない。
600字の小論文では、なぜかいつも400字書いたあたりで力尽きる。
小論文が書けない人間に論文が書けるはずがない。

だから高校入学当初は進学する気なんてなかった。

ところが、生徒の過半数を国公立大学に合格させることを目標として掲げる高校だったのと、意図せず無闇に成績が良かったため、何となく進学する方向へ流された。
働きたくない、というのもあった気がする。

そんな中、冒頭に書いた情報をどこかで見聞きし、
「私向きじゃないか」
と思って、法学部を目指すことにしたのである。

われながら安直過ぎる。

晴れて法学部生となった私は、そこで初めて事実に直面した。
期末試験はほぼ全科目論述試験なのだ。
もう少し具体的な説明を加えれば、約1000字(字数制限はないが、これくらいは要求されている気がする)の小論文を3題、90分間で書き切らなければならないということだ。
しかも、それを学期ごとに5~10科目こなす必要があるわけだ。

卒論を書かなくても良いというのは本当だったが、ひょっとするとそれを上回るかもしれない苦行が半年ごとに待っているのである。
想定外の事態。

結局、卒論を書くことはなかったけれど、何度か論文めいたレポートは書いたし、定期試験も乗り切った。
恐ろしいことに、書けたからといって、書けるようにはならない。

つまり、何が言いたいのかというと、
「卒論を書きたくないから法学部へ行く」という選択は間違いだ。
ということだ。

文章を書かなければならないという点においては、きっとどの学部も似たようなものだろう。
いわゆるFランク大学については知らない。個人的にはフィクションだろうと思っているが、世の中は信じがたい真実で溢れているというのもまた事実である。

学問をしたい、将来の夢の実現に必要、キャンパス・ライフに憧れる、こういう理由がない人はそもそも大学に行くべきではないし、その必要もない。
フリーターでもやっている方がよっぽど有意義だ。

・・・なんて言ってはみたが、こんな私自身の大学4年間は人生で最も充実していた。

法学部の学生に向けて

何かの間違いで法学部に入ってしまい、定期試験のたびにひいひい言っている学生にアドバイスしよう。

試験勉強なんてしなくても単位は取れる!

私が採点基準の胡散臭さを嗅ぎ取ったのは、1年の前期の成績発表のときだった。

入学当初の私は客観的に見て真面目な学生だった。
興味もないのに、すべての講義に出席し、ノートもしっかり取り、たまに予習もしていた。
講義内容はほぼ理解したという自信があったので、試験勉強にはあまり力を入れなかった。
そんな私の入門科目の成績が「可」だったのである。

不信感を覚えつつも、原因は自分の理解が足りなかったからだ、と健気に考えた私は、後期、もっと勉強した。
試験勉強を熱心にしたのは初めてだった(受験勉強すらした記憶がない)。
その過程で、「政治過程論」(だったかな?)、そんな名前の科目がちんぷんかんぷんだったので、他の科目を優先するために諦めた。
そして臨んだ試験。捨てた「政治過程論」以外の手応えはなかなかだった。

しかしながら、発表された成績は「政治過程論」が「良」、他の力を注いだ科目がことごとく「可」だったのである。

やはり何かがおかしい。

そして2年の前期、真面目に勉強した4単位の科目を3つ、あわせて12単位も落としたことで、ついに確信する。

理解度(そのための学習量)と試験での得点は比例しない。
それどころかむしろ反比例の関係にあるのではないか?

新たな疑問を抱えて迎えた後期、リスクの分散を考え、期末試験が無い代わりにレポートを提出する講義を取った。
確か「外交史」だったと思う。
その講義で予想外に中間試験が行われ、入学以来初めて、採点済みの答案用紙が返ってきて、私は驚愕する。

なんと17点。一応いっておくが、100点満点のテストである。

事はそれだけに止まらず、さらに驚くべきは、私がノートを見せてあげた友人が80点だったことである。

2つの答案を見比べて、とうとう得点が低い原因が判明した。

私の解答は知識の羅列に過ぎず、それぞれの情報をつなぐ説明が不足していたのである。
論理展開のない、あるいは論理的整合性が取れていない、小論文の出来損ないだった。

振り返ってみるに、例えば「政治過程論」は、問題を見ても何を問われているのかすら判断に困るような状態で試験に臨んだため、わからないなりに1つずつ着実に論理を積み重ねて“論述”していた。
他の予想外に結果の出た科目についても例外なくそうだった。

他方、十分に勉強したはずなのに落としてしまった科目は、やはり解答の体をなしていなかったのだろう。

そしてこれらは、このブログで何度も述べているとおり、私の文章を書く能力が日常生活に支障をきたすレベルで欠けていることに起因している。

つまり、理解度と得点が反比例するのではないかという疑問は、私にとってはそのとおりだったのである。

だから私は早々に諦めた。
20年間できなかったことが急にできるようになるはずがない。

そうしてろくに勉強もせずに臨んだ後期試験の結果は上々だった。
それから卒業するまで単位に対する不安は一度も抱かなかった。

最後に、単位を落とさないための条件をできる限り一般化した上で整理しておこう。
・とにかく説明する。
ここまで説明する必要があるのかと疑問に思うくらい、関係なさそうなことまで説明するくらいで良い。論理的に美しい文章であれば完璧だが、少々ごちゃごちゃしていても問題ない。

・とにかくたくさん書く。
文章量の少ない答案は問答無用で採点対象外になることがあるらしい。さらに何でもいいから書いておけば解答者が意図しない点がもらえるかもしれない。

・実定法系の試験については、法的三段論法を押さえた上で、平均的な論理的思考力を持って臨めば、恐れることは何もない。
判例まで押さえておけば満点が取れるだろうが、それはまた次元の異なる話である。実際の裁判であっても、何を争点にするかは当事者の主張の説得力次第だし、法学には判例とか多数説とか少数説とか有力説とか、傍から見れば理解に苦しむ状況が常識的にあり、これだけ混沌としていれば正解なんてないに等しいのだから、自分の主張を押し通すことが得点への最短距離であると断ずるに何ら躊躇はない。


ところで、これは私が在籍していた大学(国立K大学)に限ったことかもしれないが、入門講義の時点では解答の書き方を教えてもらえなかった。私は2年生のときに刑法の講義で初めて法的三段論法という強そうな単語を聞いて、ああ、そういうことか、と非常に納得したことを覚えている。しかも刑法は必修ではなく、他の講義ではついぞ聞かなかった。これはカリキュラムの欠陥としか思えない。専門用語を覚えさせる前に、こういう広く使える手法を教育者は提示するべきではないだろうか。少なくとも現在の大学は学問に勤しむ場ではないのだから、しっかりschoolとしての機能を果たすべきであると思う。

法学部の志望者に向けて

なんとなく思いついたので書く。

最初に結論を述べておこう;

公務員を目指している人と法曹界に進みたい人と法律や政治に興味がある人以外は、法学部へ進学すべきではない(悪だくみの好きな人にはオススメだ)。

高校で「キャリア~」(正確な名称は忘れた)という授業があった。
職業研究とかをしながら自らの将来像を描き、そこへ至るプロセスを明確化する。
――といった内容だったと思う。

そんなことをやらされても、やりたいことなんてないし、見つけることもできなかった私は、進学情報誌に書かれていた内容を鵜呑みにして、法学部への進学をなんとなく決めた。

「法学部はつぶしが利く」といった内容だったと記憶している。

確かにそれはその通りなのだが、やりたいことが見つかるということが前提が抜けている。

結局、就活で冗談みたいにエントリーシートを書かなければならないので、志望動機が無ければその時点で詰む。
私は文章を書くことができないので、器用に動機をでっち上げることもできなかった。

不景気下の就活ではものすごいハンデだ。

では、どうすべきなのか?

私の答えは、進学はやめてさっさと就職するか、専門性の高い(つぶしの利かない)学部へ進学するか、社会からドロップアウトするかの三択である。

私はもう手遅れなので、まだこれからの人は気をつけて欲しい。

国語の偏差値を上げる方法

国語が苦手だ、と書いていて思い出したので、世の受験生のために私の体験談を披露しよう。

私は文章が書けない。「傍線部はどういう意味か、80字以内で説明しなさい」というような問題はほぼ全滅。したがって、現代文がかなり苦手で、古文は少し苦手、漢文はそうでもない、という成績だった。河合塾の模試の偏差値は全部あわせて50台中盤。

そんな私が偏差値60台後半をコンスタントに出すようになった理由は簡単で、

「とにかく書く」

ただそれだけだ。

答えが全くわからなくても、とりあえずそれらしい文を書いてさえいれば良い。
どうしても書けない場合は、問題文の中の関連がありそうな語句を切り貼りすれば、多少支離滅裂な文章が出来上がったとしても、点はもらえる。
日本語を読み書きできれば、そう的外れな解答をするのはかえって難しい。

私はこの方法で受験勉強をほとんどせずに本番まで乗り切った。

あるとき、解答欄は埋められないけれど時間が余るという状況が何度も続き、試しに残りの時間で埋められるだけ埋めてみようと悪ふざけのつもりでやってみたところ、予想外の高得点が出たため、返却された答案を分析した結果、上記のような結論に至った。
何事もやってみるものだ。
しかも私の場合、他の科目についても文章が書けないことで得点の機会を失していたので、同じ方法で成績が上がった。

私の文章力についてはこの文章で明らかだろう。この程度の能力でも偏差値70に手が届くのだ。
努力とか大嫌いな怠け者はぜひお試しあれ。

ついでだけれど、古文・漢文は外国語だと思えば負担は減ると思う。英語が得意ならなおさら。

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