奈須きのこ「空の境界(下)」

空の境界(下) (講談社文庫)
奈須 きのこ
講談社
売り上げランキング: 8832

6/忘却録音――初めて黒桐鮮花にスポットが当てられた。鮮花は普通であるがゆえに特別な兄に恋慕の情を抱いており、彼の周りをちょろちょろする式を疎ましく思っている。そんな二人が鮮花の高校で起きた事件の調査のため、協力することになる。魔的なものを見ることができない鮮花の眼の代わりを式が務めるのだ。尼僧服のような制服に身を包み潜入する式。捜査の端緒は一年四組で起きた傷害事件。二人の生徒同士が口論の末、カッターナイフで切りつけあったというのに、その場にいた誰もが止めることもせず、事件があった事実さえ忘れていたというのだ。調べていくと四組の生徒全員が過去を暴く手紙を受け取っていたらしく、口論のきっかけはそれによる疑心暗鬼だったらしい。そしてそこには妖精の存在が……。とまあ、こんな感じで物語は進むのだが、第六章の役割は、荒耶宗蓮が死んでも彼の謀略はまだ生きていたという最終章への繋ぎのようなもので、式が失っていた交通事故に遭う前の記憶を思い出すのが主である。記憶のプロセスは、銘記、保存、再生、再認の四段階に分かれている。式は目覚めてから、それ以前の記憶の再認が上手くできてない。玄霧皐月は妖精を殺したことで呪われて再認ができなくなった。自己を形作るのは過去である。再認ができないというのは過去を自分のものだと認められないということで、それは過去がないに等しく、自分という人格が形成されることもない。個人の脳ではなく、世界に刻まれた記憶。これはどこぞの名探偵が見ているものである。

境界式――第一章以来の伏線がここで回収された。式を糾弾した人物、小川マンションの住人名簿の中にあった名前。識は誰も殺していなかった。追記;ここまでが劇場版第六章。二百数十ページにわたる長編と言ってもよい長さをどう一時間にまとめるのか気になっていたが、手法としては簡単で、まず、長さの原因である議論を大幅に省き、さらに、事件の構造を簡素にすることで、物語に必要な展開も省いていた。したがって、内容的にはほぼ別物だった。映画といえども、R指定なしでは表現が大幅に制限されるらしい。少女売春がなかったことにされているし、死人も減っている。小説ではキリスト教の自殺に対する考えがひとつのどんでん返しとして機能していたのにそれもなくなった。勧善懲悪のストーリーに成り下がってしまった感がある。そんな中で、エンドロール後の「境界式」にあたる部分の人喰い描写は圧巻だった。残るは第七章のみ。

7/殺人考察(後)――三年前の殺人鬼の正体が明らかになる。正直意外でもなんでもないが、ここへ来て、小説としての構成がとてもトリッキーであったことがわかる。章題がついていたりついていなかったり、不思議に思うことは読んでいて多々あったが、まさかこういう形とは! 人は一人分の死しか背負えない。二人以上は殺人ではなく殺戮である。殺戮は人間の行為ではない。ゆえに一人を殺した者は、自分を殺すことができなくなり、人として死ねない。そしてエピローグ。「空の境界」とは式の肉体のことだったのだ。虚無としての起源を持つ式。陰と陽、内に相反するものを保有する太極としての式。太極の形を画定する境界としての円。境界が作るのは内と外。精神の入れ物は肉体。唯脳論の胡散臭さはこの辺りにあるのだろう。脳だけでもおそらく精神活動は可能だろうが、しかしそれはもはや人間ではない。肉体におけるフィードバックがあって初めて人間たり得るのである。だからサイボーグはまだ人間であるといえる。現実に脳だけを残して仮想空間に生きるとしても、肉体を想定せざるをえない。これはイマジネーションの問題ではなくて、人間とはそもそもそういうものなのだ。追記;第七章。アクションシーンは四、五回あってどれも力が入っていた。原作との細かな差異は見受けられたが、ほぼ同じ。中盤まで駆け足気味に感じたのは、最後の演出にたっぷり時間を取るためだったらしい。劇場版では結局式の最後の秘密は明らかにされず仕舞い。第一章の冒頭で雪の中の邂逅が描かれていたから、最後に同じシチュエーションで綺麗に閉じるのかと思っていたら、それはなかった。時間の都合だろうか。これにて終幕。ちょっと痛い芸術映画ということで雰囲気を楽しめば最高に面白い。内容を理解しようとすると原作は必須。そんな映画だった。
スポンサーサイト



検索フォーム
最新記事
リンク
カウンター
カテゴリ
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
カレンダー
06 | 2010/07 | 08
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
QRコード
QR